行列について

行列巡行

行列巡行

長岡京ガラシャ祭は、明智光秀の娘・玉が勝龍寺城(現・勝竜寺城公園)の城主であった細川藤孝の嫡男・忠興に輿入れしたというエピソードを再現したお祭りです。
行列は、玉と忠興を中心としたお輿入れ行列のほか、長岡京市ゆかりの歴史上の人物が登場する歴史文化行列、そして現代の人々が玉・忠興をお祝いするために集まり歩く、町衆祝い行列の3つの行列で構成されています。
お輿入れ行列は、玉・忠興を主役として玉の両親である光秀・煕子、忠興の両親の藤孝・麝香、玉の侍女の清原マリア、光秀の甥の明智弥平次、藤孝の家臣の松井康之の9名をメインにしています。そのほか多くの家臣、侍女、侍童、侍女童など総勢約100名によるお輿入れ行列となります。 歴史文化行列は、長い歴史のある長岡京市のゆかりの人物による行列です。長岡京市に愛着を持ってもらい、歴史を知ってもらうため10の小学校区から総勢70名の市民の皆さんが参加しています。弟国宮の時代から江戸時代まで、それぞれの時代の豪華絢爛な衣裳も見どころです。
町衆祝い行列は、長岡京市の友好姉妹都市や市内外の団体が玉・忠興をお祝いするために集まり、音楽や踊りなどで行列を盛り上げてくれています。

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古墳時代〔第10小校区〕

継体天皇

第26代天皇、518年ごろ継体天皇が長岡に弟国宮をつくる。弟国宮は今の今里・井ノ内あたりにあったと言われています。

長岡京時代〔第9小校区〕

藤原継縄・百済王明信

百済王明信とその夫。日本後記によると、慎み深く高ぶらず、穏やかな人柄と記されています。神足に継縄の屋敷があったと言われています。

平安時代〔第7小校区〕

藤原 基経

平安時代初期の政治家のひとり。伊豆に流された時、故郷の長岡を偲んで「長岡」の地名をつけた。友好都市を結ぶ所以でもあります。

平安時代〔第6小校区〕

菅原 道真

学者・政治家。貞観19年(877年)文章博士となる。55歳で右大臣となるが2年後大宰権師に左遷されたことで有名。長岡天満宮に祭られています。

平安時代〔第4小校区〕

清少納言

993年、中宮定子の後宮に仕えました。有名な随筆「枕草子」の中に、「・・・鞆岡はささがおいたる・・・」と書いています。

鎌倉時代〔長法寺小校区〕

熊谷次郎直実

平敦盛を討った武将。法然の門下となり蓮生と号し、粟生の地で草庵を結ぶ。1185年、光明寺を創立しました。

鎌倉時代〔第5小校区〕

承明門院

後鳥羽天皇の後宮となり、為仁親王(のちの土御門天皇)を出産。金原寺を造り若くして崩御した土御門天皇の遺骨を葬ったとされています。

南北朝時代〔第8小校区〕

細川頼春

南朝方の楠木氏の京都侵攻を阻止するため、弟師氏と勝龍寺に砦を構築。その時、小畑川の流れを現在のものに改修しました。

江戸時代〔神足小校区〕

永井直清

1633年乙訓郡勝龍寺へ配置され、上方民政の要務を任命された。2万石を領し、現在の長岡京駅周辺に城館を築き居所としていました。

江戸時代〔第3小校区〕

桂昌院

五代将軍綱吉の生母。仏教に帰依し乙訓寺の荒廃寺社の復興などに努めた。 幼少のころの名前をお玉という。

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