ガラシャ祭とは

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長岡京ガラシャ祭の由来

京都府長岡京市は、市街地の全域を長岡京跡に覆われ、多くの古墳や城跡、神社仏閣が所在しており、先史から近代に至るまで、日本の歴史を語る上でも欠かせない、文化財や歴史文化が集積しています。
平成4年、長岡京市の文化財の一つである、勝龍寺城跡を整備し、市民が憩える勝竜寺城公園が完成しました。その完成を記念して、市民の方から今から約400年前に織田信長のすすめにより、細川家に嫁いできた明智光秀の娘・玉のお輿入れの様子を再現する、行列巡行を開催しようという提案がありました。
それ以降、「長岡京ガラシャ祭」として、広く市民に親しまれています。

物語

父・明智光秀と母・熙子の間に三女として生まれた、玉。 天正6年(1578年)、玉は織田信長のすすめにより、細川藤孝の嫡男・忠興に輿入れしました。当時の滋賀・坂本城から京都・長岡までの行程を、多くの家臣を連れて行列してきたと想像されます。その後2年ほど勝龍寺城で新婚生活を送ったと言われています。
天正10年(1582年)に、光秀が起こした本能寺の変により、玉の人生は一変します。丹後の山奥に幽閉され、家族とも引き離されました。その後許しを得て大坂の細川屋敷へ戻ります。そこでキリスト教に出会い、改宗し、その名を「ガラシャ」(“神の恵み”という意味)としました。
慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いの前哨戦で、石田三成勢は徳川方についた細川家の妻・ガラシャを人質に取ろうとします。しかし、ガラシャはこれを拒否。家臣に介錯させ、壮絶な最期を遂げたと言われています。その際に、「散りぬべき 時知りてこそ 世の中の 花も花なれ 人も人なれ」(花も人も散るべき時を知っているからこそ美しいのだ)という大変有名な辞世の句を詠んでいます。

ガラシャの後半生は苦難に満ちたものでしたが、現在の長岡京市域は短いながらも幸せな思い出のある地であったのではないでしょうか。

舞台 勝竜寺城について

勝龍寺城(しょうりゅうじじょう)は、現在の長岡京市勝竜寺に江戸時代前期まで存在していた城です。元亀2年(1571年)、織田信長の命により、安土城に先立って「瓦・石垣・天守」を備えた城へと改修されたことから、近世城郭の原点として評価されています。
永禄11年(1568年)、足利義昭を奉じた信長の上洛にともなう戦いで戦場となり、翌年には義昭の側近、細川藤孝が入りました。天正6年には、明智光秀の娘・玉が、藤孝の嫡男・忠興のもとに輿入れし、結婚式が行われたと言われています。 天正10年(1582年)の本能寺の変に続く山崎の戦いでは、光秀が勝龍寺城を拠点として羽柴(豊臣)秀吉を迎え撃ちます。しかし敗れた光秀は、いったんは勝龍寺城に入りますが夜中のうちに脱出し、坂本城へ落ち延びようとしたことは有名です。光秀が脱出したと言われる城の北門には、当時の石垣や門の礎石が残り、今も枡形虎口を見ることができます。
江戸時代には、永井直清が居館としようとしますが、北側に神足館を新造して入り、再興されることなく廃城となりました。その後、長く城跡だけが残っていましたが、平成4年に勝竜寺城公園として整備されました。

明智家

玉(ガラシャ)

16歳の時、忠興に嫁ぎ、勝龍寺城で幸福な新婚生活を過ごす。本能寺の変後は、丹後味土野の地に幽閉されるなど、苦難の生活を送る。後にキリスト教徒となる。

玉の父

明智 光秀

織田信長に仕え、乙訓・京都の行政を担った。本能寺の変後、勝龍寺城を拠点に秀吉軍と戦う。

玉の母

明智 熙子

浪人時代の光秀を献身的に支えた。
自身の髪を売って金を工面し、夫の面目を保ったという逸話も。

玉の侍女

清原マリア

玉にカトリックの洗礼を授けた。

光秀の家臣

明智 弥平次

武勇に優れた武将。光秀の死後、馬に乗って琵琶湖を渡り、対岸まで逃れたとする「湖水渡り」の伝説も。

細川家

細川忠興

織田信長に仕え、摂津・播磨・丹波・丹後方面に転戦し武功を挙げた。信長の仲介を受けて玉と結婚する。細川氏を発展させた政治手腕の持ち主で、茶湯にも精通していた。

忠興の父

細川 藤孝

織田信長に仕えた、光秀の盟友。勝龍寺城を当時最先端の城郭に改修した。後に出家し「幽斎」と名乗る。

忠興の母

細川 麝香

勝龍寺城の「沼田丸」は、麝香の実家、沼田家にちなんだもの。 ガラシャの自害に影響を受け、後に洗礼を受けたという。

家臣

松井 康之

細川藤孝・忠興親子に仕えた、細川家の重臣。

家系図

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